妙法寺's Web Site
Nenpouzan Myouhouji

妙法寺 略年表
年月日 出来事
1795(寛政5)年頃 智了、越中国上新川郡下砂子板村、養楽寺に師事。境内に草庵(分家寺・妙法寺の前身)を建て本寺(養楽寺)と協力しつつ伝道教化につとめる。
1872(明治5)年 戸籍再編。
1875(明治8)年5月 第四代住職石田周賢(養楽寺番僧)、石川県庁に「妙法寺」分籍の願書を提出。書類不備の為に許可されず。
1880(明治13)年4月 周賢、本願寺に新寺起立願いを提出。
5月 本願寺、一寺創建を許可。石川県に提出する本山添書を送付。
7月 周賢、書類を完備し石川県庁に一寺創建の願書を提出。
1880(明治13)年8月19日 石川県令千坂高雅、「妙法寺」と寺号公称許可。妙法寺、独立。住職、石田周賢。
1888(明治21)年11月30日 四代住職 石田周賢 往生。53才。
1898(明治31)年4月5日 石田徳玄(周賢二男)、第五代住職を継承。
1901(明治34)年9月30日 梅原薩玄(周賢長男・旧姓石田)、第六代住職を継承。
1902(明治35)年10月7日 石田徳玄、信教寺(石狩町)開基住職となる。
1905(明治38)年 梅原薩玄、義教寺(幕別村白人)初代住職となる。(妙法寺住職と兼務)
1906(明治39)年1月 音更村東士狩を開墾していた富山県江波団体で一寺建立の気運が高まる。梅原薩玄、東士狩にて開教に従事。妙法寺移転の基礎を固める。
1908(明治41)年1月 第四代坊守石田ノブ、平林賢領(現陸別町本証寺開基住職)と養女石田チヨノを伴って東士狩に移住。
1909(明治42)年 西嶋要次郎・太田理三郎・山田茂八郎氏より寺院敷地等を寺院基本財産として寄付される(現住所より少し西)。
寺院敷地:五反歩 基本財産:約八町六畝
本堂建設懇志ならびに建設作業、開始か。
1913(大正2)年2月 仏教婦人会東士狩支部(のち妙法寺仏教婦人会) 発足。
1913(大正2)年3月 妙法寺、東士狩への移転を富山県から許可される。(住職 梅原薩玄宛)
6月 本堂完成。農閑期である冬期間を利用し、東士狩地域の人々が総出で協力。数年がかり。平屋建、五八坪五合。
7月 第一管区北海道東組に編入される
1913(大正4)年 布教使岩滝静雄、養子縁組で石田静雄となる。
1914(大正5)年 石田静雄、石田チヨノと結婚し、石田静玄と改名する。この頃、第七代住職継承。
1920(大正11)年 石田静玄、妙法寺を去る。無住となる。
1931(昭和6)年3月 石田秀英(石狩町信教寺、石田徳玄二男)第八代住職継承。
1932(昭和7)年2月14日 第五代住職 石田徳玄 往生。
1935(昭和10)年1月13日 開基(第四代)坊守 石田ノブ 往生。
1936(昭和11)年8月8日 第六代住職 石田薩玄 往生。
1937(昭和12)年8月 秀英召集。代務住職に弟・石田信誠。
1938(昭和13)年3月2日 秀英戦死(中国、湯頭鎮)。
1939(昭和14)年 信誠、第九代住職継承。
1951(昭和26)年9月 本堂完成落慶法要。
1955(昭和30)年 親鸞聖人御厨子と須弥壇を整える。
1959(昭和34)年 御宮殿須弥壇と前机を整える。
1962(昭和37)年 納骨堂新築。
1966(昭和41)年 西嶋政直氏顕彰碑建立。
1970(昭和45)年 庫裡新築。
1975(昭和50)年9月13日 妙法寺こども会 発足。
1976(昭和51)年 蓮如上人厨子・画像奉安。
1978(昭和53)年 本堂大改修。
1981(昭和56)年1月 聖歌隊サンカーラ 発足。
1982(昭和57)年12月3日 妙法寺壮年会 発足。
1988(昭和63)年3月 第七代住職 石田秀英師 50回忌法要。
1989(平成元)年9月 納骨堂並びに講堂完成。
12月 納骨堂並びに講堂落慶法要並びに記念式典。
1992(平成4)年7月14日 『念報山妙法寺 慈光のもと』(寺号公称110年、第九代住職在職50年、納骨堂・講堂建立記念誌)発行。
1998(平成10)年5月12日 石田秀誠(信誠長男)、第十代住職継承。
(奉告法要は10月30日に挙行)
1999(平成11)年11月11日 石田秀子(坊守)、朗読ボランティア
「フレディの会」旗揚げ。
2000(平成12)年3月23日 第九代住職 信誠 往生。
11月 庫裡新築。
2003(平成15)年8月19日 ウェブサイト(ホームページ)開設。
2005(平成17)年10月1日 智秀(若院)、布教使。


妙法寺 沿革
念報山妙法寺 慈光のもと
寺号公称110年
第九代住職在職50年
納骨堂・講堂建立
記念誌
1982(平成4)年7月12日 発行 を引用・参照
開基と北海道移住 本堂建立 開基時代の布教
開基坊守 石田ノブ師
第五代住職 石田徳玄師 第五代坊守 石田多幾師
第六代住職 梅原薩玄師 第六代坊守 梅原チト師
第七代住職 石田静玄師
第八代住職 石田秀英師(打ち込み中)

開基と北海道移住

 浄土真宗本願寺派念報山妙法寺は、寛政5年頃(1795)、第18代文如上人の時代に、智了という人が真宗の教えを信じ、越中国上新川郡下砂子板村に一つの草庵を建て、本寺養楽寺に師事したのに始まり、その後、明治13年8月19日、四代周賢(開基)の時、石川県令千坂高雅により妙法寺と寺号公称許可を受けたのである。

 初代  智了  文化12年8月10日
 二代  了海  安政6年3月26日
 三代  法潤  嘉永2年8月14日
 四代  周賢  明治21年11月30日

 富山県は、本寺と分家寺が同じ境内にあり檀家が増えると分かれ独立するのである。
 妙法寺も本寺養楽寺、住職菅田深誓師の境内にあり草庵を建てて、説教所として法務を勤めながら常に本寺養楽寺と協力していた。周賢師は養楽寺の番僧でもあった。

 明治8年5月24日養楽寺番僧として周賢師は石川県庁に分籍の願書を提出する。祖先より一戸設立相続して養楽寺地中妙法寺と唱え来たが明治5年戸籍編成に於いて、寺号も僧俗の区別など判然としない状態であったので分籍の申請を出したが、書類不備の為に許可されなかった。

 周賢師は新寺起立の願望を捨てず明治13年4月20日、308名の信徒名と総代者により、本願寺本山に新寺起立の願いを提出する。308名総代久世簾太郎氏、養楽寺衆徒教導職試補石田周賢師、法類総代権訓導石原不着師、越中国第十五組々長、県組長等の奥印を受け書類を整えて申請する。

 明治13年5月31日本願寺本山より一寺創建を認めて、石川県に提出する本山添書を真宗本願寺派官庁、大教正大谷光尊師より6月1日付で送付されて来ました。

 明治13年7月19日付けで石川県庁に一寺創建の願書を提出する。養楽寺衆徒教導職試補石田周賢師を住職と定めて、本願寺本山添書、永続の方法、建物圃絵図面及び明細書、法類信徒総代連名署の各書類を完備して石川県令千坂高雅殿に提出し、明治13年8月19日付で許可を頂き、寺号公称妙法寺として開基したのである。

 明治21年11月30日周賢師は開基住職として努力されていましたが、53才にして往生の素懐を遂げられました。

 そのころから富山県地方からは北海道への移住が盛んになり寺院も例外ではなかった。周賢師の後を徳玄師が住職を継職していたが、石狩町に移住、信教寺を建立開基住職となった。長男薩玄師は全国を布教して歩き、妙法寺第六代住職となるも 妙法寺に返らず、住職をしながら幕別白人(札内)義教寺の養子となって 当時、幕別白人(現札内)で開教布教にいそしんでおられた梅原儀教師の娘婿となったご縁から、義教寺の初代住職となり 出寺した為に、妙法寺は開基坊守、石田ノブ師のみとなり法務もままならなくなり、寺も荒廃していった。

 丁度そのころ、当東士狩地区には、富山県江波団体が入地開墾の鍬を入れたが、団体員の中から一寺建立の気運が高まり、それを聞いた石田ノブ師は明治41年、平林賢領(現陸別町本証寺開基住職)と養女石田チヨノを伴って現住所に移住した。当時、御本尊は団体長である西嶋要次郎宅に安置していた。


本堂建立

 明治42年、本堂建立の計画が出される。西嶋要次郎氏と西嶋与吉郎氏より用地の寄附があり、西嶋要次郎氏、太田理三郎氏、山田茂八郎氏等より基本財産の土地寄附がありました。
 本堂建立が決定されて、明治42年度より懇志を受け記帳される。村方は全戸、帯広を始め音更村内も広域に寄附をお願いしたのである。当時大木がうっ蒼と繁り材料選びには事欠かなかったが、伐採、枝払い、玉切り搬出、製材とすべて人力によるものであり、その苦労は大変なものであった。

 農閑期である冬期間を利用して厳冬の中に村方総出で作業をする。木切鋸と手斧による製材であり、三ケ年は要したであろうと思われる。各個人が材料を出し合い、その場所で製材にして運んだものもあったと言われる。屋根は柾ふき、壁も土壁を塗って、その頃の民家とくらべては立派なものであった。

 大正2年6月、完成したのである。おそらく、郷土芸能獅子舞等をして、村方は総出、遠く他門の人も大勢で餅播きした事であろう。その喜びは感無量であったと思われます。

 入植して10年と開拓の最も苦しかった時期に、本堂建立を門信徒自らの出役して、血と汗の結晶で成し遂げた。

 農家の祖収入が一戸百円から二百円と言われ、この収入の中から浄財を寄附したので、生活も最低を余儀なくされていた。最高45円から下は2銭に至る170戸の懇志があった。


開基時代の布教

 開基坊守石田ノブ師、平林賢領師は開基間もない東士狩で、自ら野菜、芋、豆類を作り食糧にし、現在より遙かに寒く立木もパーンと凍り裂ける厳寒と吹雪ともなれば、二日も三日も道がわからぬ交通不便であった。この様な困難を乗り越えて布教に勤められた。

 何里もある道を歩いたり、馬に乗ったり、冬は特に二重マントも凍りつく寒さに、迎えの馬や馬橇で法務にはげまれた。

 当時の入植者は教養を受けている人は少なく、学歴、教養の高いお寺さんを何よりの頼りとして、法縁はもとより生活全般に亘り御相談、御指導を受けたのである。

 門信徒も開拓の苦労もあったが、お寺を守る寺族の方々も今の私達の想像の出来ないご苦労をされたことを想う時、只々頭が下がり感謝の念で一杯です。

 大正2年本願寺仏教婦人会連合会長九条武子夫人が慈善事業視察の為に帯広にお立ち寄られ、仏教婦人会に新しい活動をすすめられた。妙法寺の十勝のお寺と共に支部を結成された。

 初代支部長には開基坊守が選ばれ、毎月定例法座を開く事とし、婦人会の会員も増加して来て、沢山の人が法縁に会う事が出来たのである。


開基坊守 石田ノブ師

 富山県で、父石原勘平衛・母はなの二女として弘化元年6月10日生まれる。石原家は法縁豊かな家柄であったから、妙法寺の石田周賢師と結婚された。第四代坊守として本寺養楽寺と共に法務にはげまれていたのである。

 第四代周賢師は門信徒の希望に依り妙法寺の寺号公称を申請され、努力の結果明治13年許可されて、本格的に寺院としての活動を始められたのであります。

 ノブ師も坊守としてつかえ、長男薩玄師、二男徳玄師と恵まれたのであります。しかし薩玄師は明治33年富山県上新川郡島村字藤木円正寺梅原儀教師の養子となり、長女チト師と結婚し梅原薩玄師となる。その後北海道に移住し38年には札内の義教寺初代住職となられる。徳玄師は北海道布教中に石狩町に、信教寺の開基住職として落付かれる。二人の子供は北海道にそれぞれ落付いたのでありました。周賢師と共に妙法寺の繁栄につとめられましたが、明治21年53才にて往生の素懐を遂げられ、45才で坊守だけとなられました。

 住職没後お寺を守っていたが仏事がままならなくなり、北海道の長男薩玄師のお誘いもあり東しかりに移住することになりました。たまたま来ていた姪のチヨノさん(13才)と65才の御高齢でありながら、明治41年に義教寺に着かれました。

 越中国より御本尊を白布にお包みして、肌身離さず戴いて、義教寺で平林賢領師と共に、東士狩の西嶋要次郎氏宅にお着きになり、御本尊を仮安置されたのです。

 開拓まもない東士狩の生活は、寺族と言えども同じ苦難のものであった。薩玄師、徳玄師と二人の子供がありながら、坊守として妙法寺の法灯を消さぬ様に努力されました。

 大正4年義教寺の役僧をしていた岩滝静雄を石田家の養子として迎え、第七代住職となられました。大正5年姪のチヨノ師(20才)と結婚されました。開基坊守も一応安心されたのであります。時代も変わり世界一次大戦もあり、好景気に恵まれて、生活も安定して来た。お寺の行事にも活気がつき、仏事も多くなった。門信徒も仏壇を買い、家庭の荘厳も出来るようになった。

 寺族も孫さんが四人になり賑やかになった。宗祖大師650回大遠忌法要を、東士狩に来て始めて盛大に執行できました。
 ご住職も各地に布教に出講されて、妙法寺の後継者と不足なく希望に添うことが出来て大変喜んでおられた。

 大正11年、御住職が全国各地に布教に出講されましたが、予定の期日が来てもお帰りになられず、出講先に連絡しましたが、解らずついに妙法寺にお帰りになられなかった。

 開基坊守78才になっておられ、再び無住職の状態となりました。昭和4年七代坊守チヨノ師も33才で、東京の田中さん(兄)を頼って家族と共に出寺されました。

 しかし強い信念と健康で妙法寺をお守りなされた。坊守は乗物には一切乗らず、馬車にも乗らず只歩くだけでした。長男のお寺義教寺へも歩いて通われたと言われている。荷物と弁当を背負い八里の道を草履をはいて、休み休み一日がかりで白人まで歩いて良かれ、帰りも歩いて帯広、音更と一日がかりであったと言われる。義教寺の坊守りが送り迎えを共にされたとか、想像出来ぬ御苦労であったことでしょう。

 晩年の頃、昔話を語られましたが、目に涙を浮かべながら、苦しかった事、寂しかった事など、話が尽きなかったそうです。

 昭和6年第八代住職秀英師が継承されて、大正11年よりの空白期を終え落着きを得たのです。昭和9年には秀英師が泉昭子師と結婚されて御安心されたのでありましょうか、9月より体調を悪くされ、坊守、親戚、近所の方々の看病もむなしく、昭和10年1月13日、苦難に満ちた92年の生涯を終えられました。若くして開基住職に死別してから47年、残された二人の子供も立派に育てあげ、小さな身体でその一生を念仏弘通のために挺身されました。

 妙法寺の法灯は開基坊守の御努力によって継がれたと言っても過言ではないと、心から感謝を申し上げたい次第です。

 法名「専念院釋浄萃信尼」の寺葬は厳寒の1月にもかかわらず多数の参参者を得て、厳粛裡に執行されました。

 その後客年法要を行い、昭和58年報恩講に五十回忌法要をつとめました。


第五代住職 石田徳玄師

 四代住職周賢師の二男として明治11年1月17日生れる。妙法寺の衆徒として明治28年4月2日18才にて得度された。明治31年4月5日21才の若さで妙法寺第五代住職を継承された。その頃より自費にて北海道の布教に出講されて石狩町大字八幡町に信教寺の開基住職となられた。

 徳玄師は遠く故郷を後にして渡道され信教寺を開教し大悲弘誓の名号を一人一人に植え付けるように教線開拓に当たられた。念仏の殿堂たる信教寺盤石の基礎を整えられたのである。

 徳玄師は兄薩玄師と共に本山の巡回布教使として、全国の布教伝道に専念された。北海道教区の重鎮として多くの要職に活躍され、各種行事並報恩講などの布教に出講された。特に『安心』についての御説教は独特の説法であり数少ない有名な布教使でありました。

 昭和7年2月14日帯広駅前二宮内科にて敗血症で急逝された。16日義教寺で仮葬され信教寺にて18日寺葬が行われた。55才の若さで檀家は勿論多くの人に惜しまれた。


第五代坊守 石田多幾師

 深川市五条八番地にある、教證寺現住職山児宜正師のお寺で明治17年にお生まれになる。御縁がありまして石狩町八幡にある信教寺開基住職石田徳玄師と結婚された。当時石狩は漁師が主で気性の荒い人が多く又檀家の方も移動が激しく顔見知りになったと思うと他の漁場に移転されるなど大変であった。ご院さんは体格も良くお角力や、ばんもちが大好きで地域の青年達と遊ばれ一番か二番であった事から、皆様はご院さんの言う事を聞かれ坊守としても安心していた。五男二女の子供に恵まれました。信教寺第二代住職継承の周玄師、妙法寺八代住職秀英師、同じく第九代住職信誠師と三人の僧侶を育てられた。あとの二人の方は自由業で活躍されています。長女は三笠市善照寺の坊守として、二女は郵便局長代理と結婚された。

 信教寺も戦争中、本堂の両側に爆弾が落ちその爆風で屋根が浮き上がるし、ご院さんも爆風で飛ばされたが、飛んだ所が布団の積んであった所で無事であったとか、心配は色々あった。その後洞爺丸台風の時、爆風で浮いた屋根は吹っ飛び本堂の高屋根は全く消えた。

 風の強い所でご院さんは復旧を四ツ棟に変えた。お金はかかっても安心できる方が良いと現在もその型のままである。

 昭和7年2月14日ご院さんは十勝へ布教に出講されたが、突然体調が急悪化し、帯広市駅前二宮医院に入院された。知らせを受けかけつけたが、敗血症ですでに御往生されていた。

 寺葬も滞りなく済ませましたが、坊守49才の若さであった。突然であったので暫くは放心状態であったが、気を持ち直し、お念仏にささえられて、信教寺の法灯を護られました。

 妙法寺には第八代御住職(信誠)の単身時代お炊事など御世話に来て頂き檀家の人とも親しくなられ、晩年もお針仕事を持って、六カ月や一カ年もの長きに亘り遊びに来ておられた。檀家のお年寄りも良く昔話などして楽しんでいました。

 開基坊守として信教寺を護寺され、苦労の連続であったにもかかわらず、82才のご高齢まで浄土真宗のみ教えを教化され、家族、親戚、檀家の手厚い看護のかいもなく昭和40年10月27日静かに御浄土にお還りになられました。妙法寺としても、本当に色々御世話になりましたと心から感謝申し上げます。


第六代住職 梅原薩玄師

 四代住職石田周賢師の長男として明治6年7月3日生れる。妙法寺の衆徒として明治23年2月22日17才で得度された。明治33年12月26日梅原儀教師長女チトと養子縁組梅原薩玄と改姓す。

 明治34年9月30日妙法寺第六代住職を継承された。明治38年義教寺初代住職となり、北海道の教化活動に専念された。開拓途上の十勝で檀家に念仏の声、如来の大悲を仰ぎつつ義教寺の基礎を整えられた。

 明治39年1月より音更町東士狩に開教に従事し、役百余戸の信徒の予約を得て話し合いの結果、薩玄出生寺妙法寺の維持困難なるため、該当地が有望なるを認めて移転の手続きの基礎を固める。明治42年本堂建立の計画、基本財産を準備して大正2年になり移転の許可を富山県より受ける。

 薩玄師は15才で父周賢師と別れたが20才頃より全国布教に出講された。関東、兵庫、九州と布教されていたが、眼病が悪化して妙法寺に帰られた。

 その後は梅原薩玄師となり幼い5才の子供を連れて北海道に移り義教寺に初代住職として念仏の同上を創設、真俗二諦の親鸞聖人のみ教えを聴聞する基礎を築かれた。

 本山の巡回布教使として全国各地の布教伝道に専念された。本山並に北海道教区の要職にもつかれ、数々の表彰を受けるなど布教使としては全国で五本の指に入る実績で独特の説法で多くの信徒に親しまれていた。

 妙法寺の信徒も梅原師の御説教と聞くや遠くの方々も集まり大勢で聴聞したと言われる。昭和11年8月8日、65才の生涯を浄土真宗の御法話を語り続け往生の素懐を遂げられた。


第六代坊守 梅原チト師

 明治13年6月15日富山県円正寺にて梅原儀教師、ツ子夫妻の長女として出生。明治20年4月富山県島村高等小学校入学、卒業後は得度を拝受、趣味の和裁を習得、寺族としての教養も身につけられた。

 明治33年12月26日富山県妙法寺石田薩玄師と婿養子縁組により結婚、翌年6月7日長女トシを出産、明治38年11月14日薩玄師義教寺住職拝命によって初代坊守となる。

 明治38年秋、坊守は六字名号御本尊を背負い長女トシ5才の手を引いて鉄道開通されていた落合までは列車で、狩勝トンネル未開通のため、杉沢佐吉、塚本清次郎両名が馬を引いて、落合まで向かわれ、狩勝峠を乗馬にて山越し、杉沢宅で旅の疲れをいやされた。

 開拓途上の坊守として筆舌に尽くし難い苦難の連続が待ち受けていた。昔の人は小柄であったが特に弱々しく遠く離れた富山県より、寒暖の差の激しい十勝に本堂は新しく建立されたが庫裡は古く、隙間風の入り込む居間で薪ストーブ石油ランプで開拓の先例を受けながら坊守の一生は始まったと言って過言でない。

 住職薩玄師の全国布教活動で留守がちな義教寺の坊守としての役割は責任が重く、門信徒、寺院の仏事を一身に受け、本堂仏具、荘厳の寄進に門徒宅を訪問懇願した日も幾度か続いた。

 役僧も薩玄師の人柄により各地より入門、多数が修行し禅堂各地有名寺の住職に巣立ち母親替わりとして大きな役割を果たした。

 妙法寺の開基坊守石田ノブ師にも色々と御世話され、義教寺に来るのを一番の楽しみとされていた。

 家庭にあっても三男三女の母として、育ち盛りの子供の成長に目を細め乍らも、教育には寺族として最高の教養を付けられた。しかし台所は非常に苦しく、寺族、役僧、お手伝いさん等十数人の生計を支えなければならず、和裁の技術を活かし仕立物をされる傍ら特に冬期は大勢の娘に和裁を伝授お法を説かれ、女としての教養を教え、生計費に当てられていた。

 この事柄が近隣に好感を与え漸次門信徒の増加と共に義教寺発達の源と門信徒の隆盛を願い寺務に追われる毎日であった。

 昭和13年3月三代坊守腰入れ後は先輩坊守として、良き相談相手となり、義教寺の将来に光明を与え、お念仏とともに寺門興隆の日々を送られていた。

 昭和23年2月20日多事多端な御生涯の中にも念仏のよろこびとともに行年70才を一期としてお浄土に遷化なされた。


第七代住職 石田静玄師

 開基坊守石田ノブ師と共に来た平林賢領師は、大正4年まで妙法寺に勤め、坊守を守りながら本堂建立の大事業を終えて、妙法寺を去られた。

 婦人会定例や、報恩講など度々妙法寺を訪れた布教使岩滝静雄師は、大正4年石田静雄師と石田家の養子となられる。

 住職としての法座は12月18日に初めてつとめる。翌年10月10日石田チヨノ師と結婚して、石田静玄となって妙法寺の教線拡張に御尽力された。宗祖大師150回大遠忌法要を勤修す。

 第七代住職石田静玄師は妙法寺に大正11年まで、門信徒一同に親交を深め、真宗のみ教えに従い、尊い教法と豊かな人間性を築くためご努力されて、妙法寺を去られたのであります。


第八代住職 石田秀英師
生い立ち

 秀英師は石狩町字八幡町、信教寺開基住職徳玄師の二男として明治42年1月20日お生れになる。

 小学校を石狩で卒業されたが、中学校については近くに学校もなく交通も不便で冬期は特に大変であることから、十勝の白人千住にある義教寺(住職、薩玄師・叔父にあたる)より帯広中学校に通学することになった。

 薩玄師は布教使として全国的に有名で日本中の各地より布教の依頼がありお寺を留守にすることが多く、その留守中を役僧さんと共に檀家参りなどをされていた。

 妙法寺にも土曜日に来て檀家の月忌参りをされて日曜日に帰る。本人としては苦労であったと思われるが叔父さんが行ってこいと言われ遠い妙法寺へ出掛けられたと聞いています。義教寺の住職である叔父薩玄師は厳格な口のうるさいかたであった。礼儀正しく、時間の厳守、言葉づかい、身の廻りの整頓、など僧侶としての考え方など役僧さんと同じく厳しい指導を受けられた。

 健康な方でありましたので修行に耐えられ学生でありながら僧侶としての道を進まれたのである。住職が留守にすることが多いので坊守さんの愛情も深く自分の子供の様にされ、又同じ世代の子供さんと仲良くされて、叔父さんの家へ来たのですが、淋しさを感じなかったと聞かされている。

 中学校へは自転車で通学された。薩玄師の二女智津子さん(芽室寶照寺前坊守)は女学校へ通われていたので自転車の後に乗せてもらい兄弟のようであった。

 寶照寺の前坊守さんは当時を思い出し、「秀ちゃん、秀ちゃんと呼び、親しくしていた。本当に心のやさしい人であった。」とお話されていました。

 当時の義教寺は朝4時過ぎると皆起きて、お掃除、お勤め、朝食と朝の早い寺でありました。7時には役僧さんも檀家のお参りに出掛ける毎日であった。現在のように自転車で行くとすぐですが何しろ歩いて行くので、又自転車では遠い所へと特に冬は大変のことでありましたが、家族一同一生懸命であった。

 秀英師もその一員として生活されていた。角勢意子さん(薩玄師の末娘)も、気はやさしく、愛嬌も良く、思いやりのある人で皆さんにすかれる人であったと語られていた。

 角さんのお話では、住職の時間厳守は冬期檀家の法要に出掛けたが渡船が雪の為通わず遠廻りしたので2時間遅れて檀家に着いた。檀家ではあまり遅いので皆でお参りして法要を済ませていた。事情をお話して許しを願ったが家へも入れてもらえず檀家をも辞退すると大変な立腹をされた。

 住職はせめてお参りだけでもと帰らず外で一時間も待たれて何とか許しを得てお参りされ帰りましたが、その経験から時間厳守され、余裕を持って出掛けること、お寺は檀家あってのことと檀家を大切にされた。檀家などと呼び捨てにせず、檀家さんと言いなさいと家族にも厳しい人であった。今でも二世三世へとその教訓が継がれているとお話をされていた。

 秀英師も叔父薩玄師と同じ人になった。動作も機敏で、健康で、信念も固く、先々と気を配り必ず約束は守り一面恐ろしい頑固さもありました。後には軍隊へも行かれ更に人格が増した様でしたと勢意子さんは語られていました。


以下、石田秀英の「住職継承」「結婚」「応召・戦死」、第九代住職(1913-2000、米寿の誕生日に往生)と続きます。
 
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