他力本願について |
2006年2月28日 更新 |
■ご讃題
他力と申すことは、弥陀如来の御ちかひのかなに、選択摂取したまへる第十八の念仏往生の本願を信楽するを他力と申すなり。如来の御ちかひなれば、「他力には義なきを義とす」と‥‥
(『御消息』註釈版p.746)
■「他力本願」の誤用
「他力本願」という言葉は、多くの場合、誤解されて用いられている。
ある人が何かを成し遂げようとするときに努力を中途半端にして他人が失敗することをあてにしたりしている場合、「あんなタリキホンガンなことではいけませんねえ」などと言ったりすることがある。
そのように使うのは「他力本願」を誤解してのことである。
そのような誤解は、「他力」を「他人の力」と理解し、「本願」を「その人間がそのとき願っていること」と理解していることに基づいている。
だが他力は他人の力ではないし、本願とは人間が願っている願いではない。
■「他力本願」とは
他力本願の他力とは、もちろん自力に対する言葉である。だがこれは他人の力ではない。この場合の自力・他力は、自分と阿弥陀如来が一対一で向き合っている場面で言うので、「他力」=「阿弥陀如来の本願力」である。
本願とは、人間が願っている願いではない。
以前、京都の河原町界隈をデモ行進しているとき、そのデモの指導的立場にある人がマイクで「小泉首相の本願は‥‥」みたいなことをずっと言いながら何かを主張されているのを聞いたことがある。発言の主旨は「小泉首相には小泉首相の願いがあるし、小泉首相のようには考えないわたしには、小泉首相のように二は考えないわたしの願いがある」というようなことだったと思う。しかし、あのような、「本願」についての誤解の誘発を奨励するような言い方は紛らわしいのでやめた方が良いと思う。あれは「他力本願」が「ひとまかせにする」という意味ではないとわかっている人間が聞いても気になる。わからない人が聞いたら誤解を助長される恐れが濃厚である。「本願というのは人間がさしあたってそのとき願っていることで〈わたしはこれを本当に願っています、たとえば家内安全〉と発言したときの内容だったりするわけだな」と思ってしまうかもしれない。
そうではない。
阿弥陀如来が阿弥陀如来たりえている、その根本の願いが「本願」なのである。
阿弥陀如来は阿弥陀如来になる前、一人の修行者であった。
その修行者は、法蔵菩薩という菩薩であった。
法蔵菩薩は世自在王仏という仏のところで学んでいた。
そのとき世自在王仏は法蔵菩薩にたくさんの仏とその国土を覩見させた。
覩見というのはすみずみまで隈なく見るということである。
法蔵菩薩はたくさんの仏のたくさんの浄土とその浄土にいる人がどんな人なのかを隈なくすみずみまで見て回った。
なお、浄土というのは成仏の一歩手前のような段階を過ごす場所であり、環境が非常に良く、仏道修行するのに向いている土地のことである。たくさんの仏たちは自分の浄土にたくさんの人が往生できるようにして、そのひとたちの便宜をはかり、その人たちが自分で修行して仏になっていくことができるようにしていたのである。
法蔵菩薩はそのような仏と浄土、そこにいる人たちを見て、気付く。
「これらの仏の救いから漏れている人がいる。」
それは、ものすごい罪を犯した人であり、自分の力で修行して往生することができない人たちであり、そして、自分は仏になどなりたくないと考えている人たちである。
わたしはそういう人を救う浄土をつくり、そういう人を浄土に迎えよう。すなわち、仏になどなることができないとされる罪を犯した人たち・自分の力で修行することができない人たち・わたしは仏になどなりたくない、わたしは娑婆でずっと永遠に生きていきたい、娑婆こそがわたしの生きるべき場所だ、と思っている人たちをこそ、わたしの浄土に迎えよう。
そのような仏にわたしはなろう。
そのような仏になるのでなければわたしは仏にはならない。
法蔵菩薩はそのような願いを立てた。
そしてその願いを実現するためにはどうすれば良いのか、ものすごく長い時間を悩み、悩んだ後はその願いを実現するためにものすごく長い時間修行した。
そして仏となった。
以上のような、阿弥陀如来を阿弥陀如来たらしめている、根本の願い、それが本願である。
本願とは、すべての場所・すべての時間のすべての生きとし生けるものを救おうとする、阿弥陀如来が阿弥陀如来たりうるために実現しようとした願いである。
他力とは、それを実現するための力であり、その願いが実現されて、まさにいまはたらいている力である。
■体・相・用
体:〈他力といふは如来の本願力なり〉
Q. 他力は何でできているか?
A. 如来の本願力でできている。
用:〈摂取不捨〉
Q. 他力とはどういうはたらきか?
A. 逃げるのを追って追ってつかまえる。かつ、むこうから走って逃げてくるのを受け止めてつかまえる。そして永く捨てない。
‥‥阿弥陀如来は光明無量・寿命無量の仏さまである。寿命無量とは宇宙を始まりから終わりまで貫き通してもなお尽きない時間的広がりのことであり、光明無量とは宇宙の空間的な広がりを示している。阿弥陀如来は宇宙全部を超える仏さまである。だから、いつでも、わたしがどこまで逃げても、追っかけることが出来るし、迎えることができる。
相:「他力には義なきを義とす」
Q. 他力とはどういう意味か?
A. われわれ凡夫の善悪のはからいを超えているという意味だ。
‥‥摂取不捨のはたらきを持つ如来の本願力の救いにすくい取られて往生浄土・成仏していくために人間は何をすれば良いのか?
それは「他力には義なきを義とす」、はからいがいらない。
「どうしたらいいだろう? どうすれば救われていくのだろう?」という思惟や、それによる善行のようなものは、まったく不要なのである。
■七仏通戒偈
諸悪莫作
衆善奉行
自浄其意
是諸仏教
仏教が中国に伝わったとき、この『七仏通誡偈』も伝わった。もとはサンスクリット語の詩である。これはそれを中国語に漢訳したものである。
前半二行は中国で古くから行われている儒教の教えとまったく同様である。だから中国の人はこれを受け容れやすかった。意味は「もろもろの悪いことはこれを行わない、たくさんの良いことはこれを行う」ということである。そして後半の二行は「みずからそのこころを浄める、これがもろもろの仏の教えである」という内容である。
「そのこころ」とは何か。自分のココロかもしれない。しかし前半の二行かも知れない。
しかし玄奘はこのようには漢訳しなかった。次のように訳した。
諸悪者莫作
諸善者奉行
自調伏其心
是諸仏聖教
「浄」が「調伏」と訳されたことでこの漢詩のもととなったサンスクリット詩の意味がより明確となった。
「もろもろの悪いことはこれを行わない、たくさんの良いことはこれを行う。みずからそのように考えるこころをたたき壊していく、これがもろもろの仏の教えである」
悪を嫌い善を好むのは道徳である。
仏教は道徳ではない。
自らが良いと思い悪いと思うこと、そのこと自体が末通らない人間の価値判断から出ているのであり、自分の価値判断に固執すること、それを克服すべく歩む、それが仏教であり、他力の教えなのである。
■善悪のはからいを超えている
他力とは、如来の本願力による、摂取不捨の教えである。
その他力の救いに救われるために、人間は何をすべきなのか。
何もする必要がない。
ただそのまま聞かせていただくだけである。
ただし。それは「他力のすくいに与るためには何もする必要がない」ということである。
日常生活の中ですべき努力をせずに生きるべきであるということではまったくない。
阿弥陀如来の本願他力のすくいは、いつでも・どこでも・誰にでも届いている。これは、いつか・どこかで・誰かに届いているということではない。いま・ここ・わたしに届いている、ということなのである。
わたしが向かう前に、わたしがすくいを願う前に、すでに願われている。わたしが今まさに救われつつあるその不思議をこれからもずっと聞かせていただくのが、他力本願で救われるわたしの歩みである。
〈了〉
■参考文献
豊島学由『僧侶の道』(本願寺出版社)などなどなど
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