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Nenpouzan Myouhouji

「煩悩にまなこさへられて」
2006年3月1日 更新


■ご讃題

 煩悩にまなこさへられて
  摂取の光明みざれども
  大悲ものうきことなくて
  つねにわが身をてらすなり
(「源信讃」 『高僧和讃』九十五 註釈版 p.595 )

■本編

 おはようございます。
 ただいまいただきましたご讃題は、おあさじでいただきました、和讃の百四十二の左です。
 (声が小さくて聞こえないと言われたので前に移動)

 いまいただいたご讃題のこころは、
 「わたしたちの目は煩悩でさえぎられているので、摂取の光明は見えない。」
 摂取の光明というのは、阿弥陀さまの、わたしたちを救ってくださる光のことです。それが、わたしたちの目は煩悩に障(さ)えられているので見ることができない。だけども、わたしたちに見えないとしても、「大悲ものうきことなくて」、阿弥陀さまの大悲は倦むことがない。休むことがないわけです。なので常にわたしたちの身を照らしているんですよということになります。

 オリンピックが終わりました。わたしも、始まって最初の頃はずっと見てたんです、いつ獲るかいつ獲るかと言って。で、見てたんですけれども、最初の頃はスピードスケートがあって、男子も女子も四位四位で、獲れるだろうと言われていたのが獲れなかったんです。そのままずっと、スノーボードもダメで、‥‥スノーボードは「惨敗」したと言う感じで。
 他にも、スキーのジャンプとか複合とかは「あんまり良くないだろう」と言われていて本当によくなった。  だけど入賞があったりして、「ま、こんなもんかな?」と思っていたら、別にメダルとは関係なく、カーリングがとても面白かったです。見てませんでしたかね。ちょうど良い時間帯にやってたりしたんです。夜の見やすい時間帯。あとは午前中の朝の十一時とかでしたからね。‥‥でしたっけね。
 父によると時差が八時間あるということでした。なので向こうの朝がこっちの夜で、こっちの朝が向こうの夜になって、ちょうどずれてる感じなので、なんとなく、向こうの午前中やってる試合を見やすかったり、いろいろしました。

 で、最後の最後で、‥‥本当は最後の最後ではないんですが、最後の最後はアイスホッケーでしたけれども。だいぶ終わりになってか「三人行ったんだから銅メダルくらいは獲れるだろう」と言われていたフィギュアスケートで、荒川さんが獲って、「よかったなあ」と思ったわけです。

 獲ったときも、わたし目覚ましをかけておりまして。
 三人行った、最初の人から見ようと思ったんです。見てまた寝て、二人目見て、三人目見て、‥‥ってしようと思ってたんですが、一人目を見るためにかけていた目覚ましが鳴って、起きてTVを見たらまだ滑ってなかったので、うつらうつらとして、眠りこけてしまい、一人目は見れなかったんです。
 二人目の人のためにも、‥‥二人目というのは荒川さんなんですが、そのためにも目覚ましをかけていたんですけれども、それも起きて、でもやっぱりその人滑ってないので、うつらうつらとしていたら、「うわーっ!」って言ってなんかすごい騒いだんです。それで起きたんですけれども、それは見たらまだ滑ってたんですよ、荒川さんが。だけど、滑ってはいたけれど、残りの、後半の二分くらいですね。多分途中で上体を「ごーっ」と反らすのがありますよね。あれをやって、そこですごい盛り上がったみたいなんです。そこから起きて見たみたいなので、僕の記憶の中には上体を反らしている荒川さんというのは、なかったんです。
 だけど、そこからずーっと見てたら、何んか尋常じゃないような感じはちょっとしたんです。尋常じゃないと言うか、何んかいつもどおりの滑りじゃないような気はちょっとしました。素人目にもと言うか、何んにも結果がまだわかってない段階なんですけども、そういう感じで見てて、まあ、獲れたわけです。

 メダルを獲るにしても獲らないにしても、入賞するにしてもしないにしても、オリンピックに出てくる人たちって言うのは、恐らく皆んな、そういう競技の「天才」ではあると思うんです。みんな天才で、かつ、皆んな「努力する天才」なんです。だからあんなふうに、僕たちが見てても「こりゃすごい」と思ったりするような感じになるし、人間では到底信じられないようなスピードをスピードスケートでは出したりするし、スキーのジャンプなんて、何んであんなところから飛び下りることが出来るのかって思うくらい、すごいわけです。
 きっと皆んな天才で、天才がたゆまず努力をするからあんなふうになるわけだなと思うわけです。だけども、天才が努力をするだけでも、金メダルというのはなかなか獲れないんです。それは、いろんな巡り合わせだとか、天才は天才でも、天才が努力をするんでも、やっぱり、一つ一つはSMAPの歌でもあるように、一つ一つがかけがえのない花なんだというのはわかっていても、やっぱり花は「こっちの方が綺麗、こっちの方がすこし劣る」っていうふうに、見ていても私たち、較べてしまうから、点数をつけて較べたらそりゃ皆んな天才で皆んなすごいんだけれども、相対的にはちょっとずつ違いがあって、正確に秒数を計ったらこっちが速くてこっちが遅いっていうふうになったりもするんだと思います。
 だけども共通してると思うのは、皆んな天才であって、その「天才」を、もともとあった何かを、磨いて磨いてあんなふうになったんだろうと思うんです。

 さて、振り返ってわたしたちのことを考えてみると‥‥。

 仏教では俗に、‥‥「悉有仏性(しつうぶっしょう)」という言い方をします。悉く皆んな仏性、仏のタネを持っているということです。「悉」は「ことごとく」という意味です。

 ‥‥前半なんだっけ? 「草木国土悉皆成仏(そうもくこくどしっかいじょうぶつ)」とはいうけれど‥‥。何が「悉有仏性」だったっけ? 「草木国土」ではないと思うんだけど‥‥。
 「わかりません」
 はい。

 上に(文字が)四つあるんです。四つある言葉は「衆生」みたいな意味です。すべてのものに悉く「仏性」があるということなんです。
 「仏性」というのは「仏さまの性質」って読んだらおかしなことになって、「仏さまになるタネ」があるっていうふうに言うんですね。
 「仏性」っていうのは「仏ダネ」と言ったりもします。何もタネがないところから花が咲くわけはないっていうふうに言いますよね。あるいは「火のないところからは煙は出ない」っていうふうにも言いますけれども、わたしたちが仏になっていくためには、やっぱり仏のタネがあって、それがわたしたちの成仏のタネになるんだって、俗に仏教では、‥‥「俗に」って言うと変ですね。‥‥仏教の多くの教えではそういうふうに言ったりします。
 これが進んで行きすぎると「わたしたちはそもそも覚(さと)ってるんだ」みたいになっちゃうんです。「この世はこの世で仏さまがいるんだから、この世はこの世で、ダメなら駄目なまんまで、この世としては覚ってる。この世としては覚ってる中に覚ってないわたしたちがいるんだ」みたいな、何んか変な感じになったりします。

 だけど浄土真宗はコレじゃないんです。わたしたちは「煩悩で出来上がってる」っていうふうに言います。わたしたちは煩悩でできあがっているので、わたしたちには仏さまのタネはまったくない。ただただ、仏さまが照らしてくださる光の中で、何もないわたしたちにご信心が届けられて、そのご信心、いただいたまんまのご信心が、わたしたちの上にはたらいて、それが、もともとはわたしたちの中にはないんだけれども、それが「仏だね」となって、わたしたちは往生して成仏していくんだっていうふうに言います。

 だからわたしたちは、オリンピック選手のように「天才」と言うか、もともと自分の中にあった「何か」を磨くために修行したりとかそういうことをしないわけです。わたしたちは、わけもなく修行せずにただただ阿弥陀さまの光にすがって生きていくっていうんじゃなく、もともと何もないから、それを磨くことができないから修行をしないんです。ただ、ご信心をいただくというか、阿弥陀さまの願いにふれて、「わあ!素晴らしいな!」と思ったら、そこからは、自分の中にある仏さまのタネを磨いて仏になっていこうとするために修行をしたり日々の生活を節度あるものにしたりっていうんじゃなく、ただ、阿弥陀さまの光に照らされて、救われることがわかったら、そこから「申し訳ない」というか、光に照らされてあるのに、こんな汚い煩悩から出来上がっているこの体で、このまんまで、‥‥まあもちろん往生浄土していくわけですけれども、あまりに勿体ないので、努力はしていこうっていうふうになるんだと思うんです。

 スポーツ選手の場合は、天賦の才能がまったく何もないところから努力をするっていうんじゃなく、やっぱり好きであったり、もともと何か人とは違う素質があったりしたところに、その競技の大成していくタネみたいなのがあって、それを磨いて行く。
 だけどわたしたちは、もともと仏さまになるタネが何んにもないところに、言ってみれば阿弥陀さまからいただいたご信心、これが、阿弥陀さまの蒔いてくれたタネのような感じになって、そのタネが、阿弥陀さまからいただいたご信心が、わたしたちの「仏だね」ということになって、往生浄土していくのだなと思うのです。

 「煩悩にまなこさへられて」というのは、本当はまなこが煩悩にさえられているどころじゃなく、まなこそのものからわたしたちは煩悩なわけです。だけどもその、ともかく、何も、「煩悩にまなこさえられて摂取の光明」、阿弥陀さまのすくいの光はまったく見ることが、この目でしっかりと見ることはできないわけですけれど、だけども、阿弥陀さまの光は、見えないところにもちゃんと届いているんだよということです。

 『星の王子さま』という小説があります。そこにも「見えないけれどもあるんだよ」という、金子みすゞの詩に通じるようなことがありますね、ことが書いてあります。「大事なものっていうのは目に見えないんだ」っていうふうに書いてあったりします。だけども目に見えなくても、ある・ないで言えないものだけれども、ちゃんとはたらいているものは、はたらいているということなのです。

 そのようなことを、オリンピックを見ながら考えたわけではありませんが、オリンピックを見た後で、なんかそういうふうに、この人たちは努力をして努力をしてここまで来ているけれど、わたしたちは努力をして努力をして救われるんじゃなく、もう、努力をする前から、こちらが願う前から、救われるその光にちゃんと照らされているんだっていうふうに思った感じです。思ったことです。

 今日は、「煩悩にまなこさへられて/摂取の光明みざれども/大悲ものうきことなくて/つねにわが身をてらすなり」というご讃題から、‥‥なぜかオリンピックに話を持っていって、そしてその上で、わたしたちには成仏するタネがない、ないけれども、わたしたちが往生浄土、そして成仏していくっていうのは、すべて阿弥陀さまのおかげだっていうふうなことをお取り次ぎさせていただきました。

 ありがとうございます。
 肝要は拝読の御文章です。

■聖人一流章


 聖人(親鸞)一流の御勧化のおもむきは、信心をもつて本とせられ候ふ。そのゆゑは、もろもろの雑行をなげすてて、一心に弥陀に帰命すれば、不可思議の願力として、仏のかたより往生は治定せしめたまふ。その位を「一念発起入正定之聚」(論註・上意)とも釈し、そのうへの称名念仏は、如来わが往生を定めたまひし御恩報尽の念仏とこころうべきなり。あなかしこ、あなかしこ。
〈了〉
18分 2006年3月1日お晨朝

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