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Nenpouzan Myouhouji

『お坊さんだって悩んでる』から
2006年9月17日 更新


■ご讃題

 釈迦の教法おほけれど
  天親菩薩はねんごろに
  煩悩成就のわれらには
  弥陀の弘誓をすすめしむ
(「天親讃」 『高僧和讃』十一 註釈版 p.580 )

■本編

 おはようございます。

 今日は、今いただきました、高僧和讃の、天親菩薩さまの御和讃を中心に味わっていこうと思います。
 今の御和讃、今日いただきました、九八丁の左側にございます。意味はどういう感じかって言いますと、

「お釈迦さまはたくさんの法を説かれましたが、たくさんの法を説いた中に、天親菩薩さまは、煩悩で出来上がっているわたしたちには、阿弥陀さまの法が良いよって言って勧めてくれたんです」

 っていう御和讃であります。
 お釈迦さまはたくさんの法を説かれました。で、わたしたちは浄土真宗という教えをいただいているわけです。

 こういう本があります。(と言って一冊の本を示しました。)

 これは『お坊さんだって悩んでる』というタイトルで、帯を見るとですね、‥‥これ、帯なんですよ、こんなでっかい、帯の方が大きいんですね、表紙全体を覆い尽くすような。

 で、玄侑宗久さんという芥川賞を、『中陰の花』という本を書いて芥川賞を獲ったお坊さんがいるんです。臨済宗のお坊さんでして、その方が、『お坊さんだって悩んでる』というタイトルで何を書いたかって言いますと、人生相談に答えているんです。

 で、表紙だけ見て、あとは‥‥裏を見ても、あの、いろんな、一般の人に、「お坊さんだって悩んでるから、みんなも頑張って行こうね」っていうふうに書いてあるやさしい本かなって思ったんです。でもちょっと読んでみたら、あの、ある雑誌で、この玄侑宗久さんが、悩み事相談をして、Q&Aでこたえているんですけれど、その質問をして来る人が、お坊さんの雑誌なもんですから、みんなお坊さんなんです。

 で、悩み事相談って、どんなことをみんな相談してくるのかって思ったら、二十何個の質問が載ってるんですけども、それが六つくらいに分かれていまして、「お葬式とお墓」とか、タイトルはちょっとキツイのですが、「お布施の値段」とか、「現代社会の生と死」「お寺の本当の役割」云々、云々っていう、そういう大きなテーマで、お坊さんがお坊さんに質問をして来ている。「どうやって考えていけば良いんですか?」っていう、本なんです。

 お坊さんのための悩み事相談の、まとめた本ですから、一般の人には、「ああ、お坊さんってこんなこと知らないんだ!」と思われる、僕も「ああ、これはすごい質問だ」と思ったのがあるのです。

 そこから今日は、「お釈迦さまはたくさん法を説いたけれど、わたしたちには阿弥陀さまだよ」っていうところを味わって行きたいんです。

 で、第一問がですね。「お葬式とお墓」ということでですね。「子供にお葬式の意味を教えるには何と言ったらよい?」というタイトルで、お坊さんが、‥‥あのね。質問を読みます。

問 お寺で子供たちを対象にして日曜学校を開いておりますが、

‥‥なんかどっかで聞いた話ですね。で、‥‥

小学生から、「人が死んだらなぜお坊さんが来て、お葬式するのですか。お葬式をすれば死んだ人は生まれ変われるのですか。お坊さんをよばないと死んだ人は地獄に行くのですか」と訊かれます。こんな素朴なことですが、子供への説き方があれば、お教えください。

って、なんという‥‥、質問があって、それに対して玄侑宗久さん、この本の著者の方は、

答 素朴ですが、厄介な質問ですね。一応、小学生の高学年くらいが相手だと思って書いてみますので、純真な心で読んでくださいね。参考になれば幸いです。

って言って、書くんです。で、どういうふうに書くかっていうと、‥‥知りたいでしょう?

 「卒業式とお葬式は似たようなもんじゃないかな?」って、まずおっしゃるんです。どういうことかっていうと、節目・節目を大事にする人間の「文化」と言いますか、ありますよね。小学校に行ってて、幼稚園でも、保育所でも、卒園式とか、卒業式とか、あります。それはなんでするかって言うと、別に、やんなくても良いことですよね。本当の、おしなべて世の中で考えると、そりゃあ、保育所に行って、小学校に行って、中学校に行ってっていう、流れはあるけれど、別にその節目・節目でしても良いし、しなくても良いし、っていう。

 でも、するわけです。

 どうしてするかって言うと、節目・節目で、もう一個、違うところへ行くんだよっていう、みんなで、わかるため。
 あともう一つは、保育所であれ、小学校であれ中学校であれ、送っていく方の気持ちですね。「卒業おめでとう」って言って送っていく方は、淋しい。もちろん、その、これ、書いてあります。「太郎くん」に対して言ってるんですけれども、太郎くんは小学校にはいなくなるけれども、中学校に行ったら会える。だけど小学校の先生方はそんなにしょっちゅうは会えなくなるから、淋しい。その寂しさを、「これはとても良いことだし」って言って、みんなで受け取って「さようなら」って言う、そういう節目の大事な大事なものが、卒業式でありお葬式なんじゃないかいって。

 でも、

え? 卒業式とお葬式は違うだろって?

って言って、また書くんですね。

 そこに出てくるのが、「ああいう儀式をしないと踏ん切りがつかない」って。で、「太郎くんは振られたことある? 好きな女の子に」って言って、あの、振られて、いつまでもクヨクヨしていることも出来るけれど、どっかで踏ん切りをつけて、「まあ、女の子はたくさんいるから」って思って、一応、また頑張り始める。そういう節目がお葬式ってことにもなるんじゃないかい、っていう。

 あとは、うん、卒業式の場合は、小学校の先生方みんなが太郎くんを見守ってくれているっていうのがわかるけど、お葬式の場合は、逆で、おじいさん・おばあさん、先になくなった、‥‥友だちとか、そういった人たちが、わたしたちのことを見守ってくれてるっていう、そこはちょっと違うかもしれないねっていうふうに、やさしく答えていくんです。で、

お線香を焚く第一の理由は、「ありがとうございました」だよ。

これちょっと納得いかないんだけども、まあ、でも、

これまで可愛がってくれたり、心配してくれたことに御礼をするんだ。

っていうふうに、ありがとうという。そういう気持ちでお参りするんだっていう。
 お参りするのはそうだけど、お線香は別に、‥‥って思ったりろいろして。

 で、「ああ、さすが芥川賞作家の人だ、良いことを書くお坊さんだな」って思って読んでいくと、びっくりするんです。

 違ったんです、やっぱり。

 阿弥陀さまは(註:言い間違い。阿弥陀さまじゃなくお釈迦さま。)たくさんの法を説いておられる。たくさんの仏教を説いておられて、わたしたちの浄土真宗と、この方、臨済宗、‥‥禅宗の、曹洞宗と臨済宗と黄檗宗とあるんですけども、曹洞宗は、有名な、あの、駒大苫小牧とか。いちばんおっきな宗派で、そのあと臨済宗・黄檗宗ってあって、ちょっとちっちゃめになってるんですけれども、まあ、禅宗なんですね。

 でですね。

信じるとか願うってことがとっても大事なんだよ

って、お葬式の話をしているところでおっしゃるんです。

 まぁ、だから、家族が誰か亡くなったら、一応和尚さんをよんだほうが無難だよね。え? ブナンって知らない?
 ブナンってのはね、幸せになりやすいってことかな。
 どっちかわかんないときはね、とりあえず幸せを感じやすそうなほうを選ぶ。

 ここまでは良いと思うんですよ、「やるべきか・やらざるべきか」で悩んだときは、やらない方をとっていくよりも、‥‥やろうかどうしようかと思ったら、やる方をとって、実際にやった方が、後悔は少なくなるとか、あるんで、その、較べたらこっちの方がやや幸せが大きいかなと思える方を選んでいくっていうのは、良いんじゃないかと思うんです。だけど、その後にですね。選んで、

そして選んだあとは、それを信じるんだね。そうするとそのとおりになるってことが多いんだよ。

って書いてあるんです。

 「そんなこと言って‥‥ ウソだ!」って思うんですけどね。何て言うんだ。その、そう思って「信じて」やっていても、やらない、願いが叶わないことは、実際あるわけです。ねえ。お葬式の話で言えば、「この人にずっと生きていてほしい」と願っていても、その願いは叶わないわけです。

 で、その後に言うのがですね。

跳び箱を跳ぶときだってそうだろ。なんか失敗しそうな気分で跳んだらたいてい失敗する。跳べる跳べるって、信じて、そういうイメージを持ちながら跳ぶと成功するんだね。

って。

 僕、体育だめなんです。跳び箱、「跳べる跳べる」って跳んでも、‥‥こけるんです。それを、だけどもそういうイメージで跳ぶと成功するんだねって。

 ‥‥「ウソだ!」

 ウソだって言うか、でも、こうなんですね。自分で努力して、こうなったら良いって思うことを信じて、そして頑張っていく。そしたら良いゴールが待っているっていう、そういう仏教なんだなあって思って、すんごいびっくりしたんです。

 だけども、この質問に答えている姿勢は、本当に誠心誠意こたえている姿勢で。「あれっ!」って思ったんですね。

 あともう一つが、

 和尚さんも実は、お葬式、そんなふうにしてやってるんだよ。いいとこ、行ってほしい、行ってほしいって、念じてるんだ。

 ‥‥。

 わたしたちの教えというか、わたしたちが知っているのは、わたしたちがいいとこ行ってほしい行ってほしいって念じているから、その人がお浄土に往くんじゃなくって、阿弥陀さまの、こっちの願いじゃなく阿弥陀さまの願いに、よって、そしてその願いが、しっかりと、成就されてる、しっかりと、かなえられているから、わたしたちはお浄土に往くことができる。で、お浄土に往かれた方が、こちらを見守ってくれているっていう、そういう教えなんだっていうのを、この、まず第一問めでそういうふうにまず、ぶつかって、「あっ! こんなに違うんだ!」って思ってびっくりしたんです。

 で、この後も、いろいろと、えー、「愛犬の遺骨を先祖代々のお墓に入れて良いでしょうか?」っていう質問があったり、あとお坊さんらしい質問、まさにお坊さんの質問、「お布施はいただくのに、寄付をするのが嫌いなのは悪いこと?」

 ‥‥こわいなあ、って思って。ちょっと書いてある回答を見るとですね。

布施は僧侶が実践すべき一番の徳目。お金だけではない

 って書いてある。ちょっと救い、‥‥救いというか逃げ道が用意されている。

 で、「お賽銭箱のお金はどうつかわれるの?」っていう。これは一般の方ですね。で、うちの場合は、常例の精勤賞とか、皆勤賞とかで、化けて行くんですけれども、それは、‥‥あれ違う? あ、維持費の方に一部入っていくそうです。すみません。‥‥いや、あのう、常例の場合は精勤賞とかになって、それをもらって帰ってきたらお線香が出てきて、お線香があるってことはおうちでお参りしましょうってお参りしていたら、それを見ている家族の人たちに、ああ、お参りするもんなんだな、っていう、体でお布施をしている感じになっていくので、やっぱりお布施に、お賽銭はなっていくなって思ったり。

 で、あとは、「現代社会の生と死」っていうことで、現代の特有の問題、昨日の、あの、死刑が確定しましたっていうのを考えたりもしていくんです。

死刑には反対でも、生かしておくのも疑問。国家と仏教の関係は

っていう、やっぱりお坊さんが読んで、ためになりそうな話に満ちていて、あとはですね。

人前で話すのが苦手な和尚さん。読経だけで法話をしないのですが……

っていうことには、

……人の評価よりも大切なものをもっと気にして

評価を気にして法を伝えないっていうのは違うでしょう? その姿が、話が下手でもなんでも伝えたいから伝えていくんだっていう姿が良いんじゃないですかっていうことになっていくのかなって思ったりします。

 まだ全部は読んでないんです。とってあります。

 ‥‥っていうことで、今日は、あの、わたしたちのいただいている教えっていうのが、一般常識からみると、だいぶ違うのかもしれないってまた思わされた、そういうことを紹介いたしました。

 なんせとにかく、こっちから力いっぱい願っていけば叶うとか、そういうんじゃなくって、阿弥陀さまが力いっぱい願ってくれて、そしてそれを力いっぱい叶えてくれたから、わたしたち救われていくんだっていう、ありがたいなって思ったとこであります。

 いつでもどこでも、誰にでも届いているっていうのは、そういうことかなっていうふうに、思ったんであります。

 貴いご縁をありがとうございました。肝要は拝読の御文章です。

■信心獲得章


 信心獲得すといふは第十八の願をこころうるなり。この願をこころうるといふは、南無阿弥陀仏のすがたをこころうるなり。このゆゑに、南無と帰命する一念の処に発願回向のこころあるべし。これすなはち弥陀如来の凡夫に回向しましますこころなり。これを『大経』(上)には「令諸衆生功徳成就」と説けり。されば無始以来つくりとつくる悪業煩悩を、のこるところもなく願力不思議をもつて消滅するいはれあるがゆゑに、正定聚不退の位に住すとなり。これによりて「煩悩を断ぜずして涅槃をう」といへるはこのこころなり。この義は当流一途の所談なるものなり。他流の人に対してかくのごとく沙汰あるべからざるところなり。よくよくこころうべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。
〈了〉
18分 2006年9月16日お晨朝

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